幸せな島―新しい生き方とは

島に移住しました。島の生活とそこから学んだ生き方について。

島で生まれ育った人にインタビュー その1

島と人を知ってもらうためにインタビューしました。

動画はこちらです。 

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以下は文字起こしです。

 

―今日は島に生まれて育った方にインタビューさしてもらいます。今日インタビューさしてもらうのは僕と同年配の方で、島で・・・生まれ育った方ですよね。生まれも育ちも島で・・・島で生まれ育ちということなんですけども、大体ざっとでいいから、というとなんか失礼なんですが(笑)、どんな感じで今まで、いつごろ生まれたかとか、どんなふうにして育ってこられたかとか、差し障りのない範囲でうかがえればと思うんですけれども。

今、ご紹介のように、私、生まれたのは昭和35年に生まれたんですが、それから今は61歳ですので。 その間61年間のうち、この島にいなかったのは4年間、大学生活の時だけです。 その他は全部ずーっとこの島で暮らしてきました。小さいときからですね、島暮らしをずーっとしてきまして、どんなっだかと言われると、 小学校の頃は今と違ってですね、子どもの遊び場というかね、遊びというのは全然今と違いますよね。今はテレビーゲームとかですね、ネットゲームとかですね、そういった家の中で遊ぶものが主なんですが、私らが小さいときには、島での遊びといったら、魚釣りか、山に行ってですね、季節のもの、くだものとかですね、例えばご存じかどうかわかりませんが、ヤマモモとかですね。

―あー、なんとなくわかります(笑)。

イタズリとかですね。そういったものを山に子どもみんなで何人かで取りに行ってですね食べて、これでもう。お菓子もあんまり・・・ないことはないんだけど、そんなに買ってもらえない時ですからね。今と全然違ってきてますよね。
小中高行きまして、大学で4年間出て、就職はですね、大学を出てすぐに島へまた帰ってきて、まあ22歳ですね、この島で就職しましてずっと、39年間この職場にずっといるんですが、
ずーっと住んできてこれが当たり前のような感じなんですが、
若いときには、島から出たかったんですよ。就職した時の頃ですね。というのは島には遊びというか、若いときですからバイタリティーあふれて、いろんな活動いうか遊びもしたかったもので。島にいたら全然そういう、例えば飲み屋がないとかね。娯楽施設がない。パチンコもない、映画館もない、ボウリングもない、娯楽施設もぜんぜんないでしょう。島ですから、その頃は――平成12年に安芸灘大橋ができて島にもいつでも(本土と)行き帰りができるようになったんですが――その頃は 橋がないので・・・。
途中から海上タクシーができまして、(本土から)島に帰ることができるようになったんですが、ものすごく不便なんですよね。最終のフェリーが10時、9時40分のフェリーで仁方(対岸の本土の町)を(出るの)ですね、それまでに帰ってこなくちゃ行けないのでねえ、飲みに行ったりしたら絶対間に合わない・・・。
そういった不便さがあって、若いときにはもう島暮らしでなくて、広(対岸の町)の方、呉の方に出たい出たいと思っていました。
こちらへ就職して、昔はなんて言うか、跡取りとかね、島ですから独特のね、長男は後をつがなくてはいかんいうてね、結構私の時代には、跡取りというか、長男さんはここへ住んで島へ住んでここからフェリーで呉とか広とかに仕事に通っている方が多いんですよね。
今はもうずいぶん変わりましたかね。橋がついてから、逆に・・・。通うことはやすくなったんですが、出てしまってですね、いつでも帰れるということで親も見れるということで、もう町の方に出てしまって ・・・人口もどんどんどんどん減りましてね。少子高齢化ですね。この安芸灘4島全部そうなんですが・・・。そういうふうにずいぶんもう変わりましたね。 私の同級生も島に残っとる、住んどるのも数名しかいません。

―あ! そうなんですか!?

65人いるんですよね、同級生がですね。今は数人、10人以下になっていますので 。
人口も5000人ぐらいおりましたからねその時。今は1400切ってますからね。それだけ減っとるんですよね。今は若者もずいぶんもう帰ってこない。仕事場がこの島には限られてますからね。ですからなかなかね、帰ってきてないんですよねえ。
そんな感じですかね。私の紹介いいますかね。

―この島に限らず、地方いうのは人がどんどん減っていっている状態ですね。私もこの島が気に入って移住してきたんですけれども、私の場合は仕事がネットでできる仕事だったので、まあできる、と。
もっとこの島のいいところを知ってもらって大勢の人に来てもらいたいなあという気持ちはあるんですけれども、まあその仕事をね、どのようにしていくかっていうのは(問題ですね)。
でも今はインターネットで色々できるので、前とは違って考え方やり方によってはいくらでも仕事はあると思うんですけどね。

テレビなどでもね、よくリモートワークで・・・、コロナの関係でそういう風なのがができるようになったとかいうんですが、リモートで自宅で仕事する方が結構増えてるそうですね。そうなると、島でも光(ファイバー)さえくれば・・・今、光がですね、来年の4月からこの全島に(来ます)。

―楽しみですね。

これがまあ私らはそう思っていたんですが、何回も要望したんですが、なかなか人口も増えないということで、NTTもね、乗ってこないんですよね。ですから今はLTEがもうすごい、4Gになって早いですし、田舎の人はそういうのをどんどん使ってくれるので、そっちが主流になってきてたんです。私も実際ADSLからLTEに変えたんです。まあ、光がくるとなるとね、全然違いますので、仕事なんかもかなりしやすいですね。

―僕もwifiでやっているんで、遅いなーという時があるんですね。

そうでしょうね。ですからね、(光ファイバーが通ると)ちょっと変わってくるんじゃないかと思うんですね。

―インターネットが、光ファイバーが入るということは、仕事の幅も広がるし、いいかなあと思いますね。

今、実際ね私、またちょっと思い出したんですが、仕事と(同時に)地域にずっと住んでますので、ボランティア団体、まあ消防団にもう長年、25歳の時に入ったんですかね。ですからもう30何年になるんですが、その中でですね、新入団員がこの最近ですね、今入ったのが、元地域おこし協力隊員と、そしてUターン者の旦那さんが入るんですね、下蒲刈のご出身で出てから結婚してまた帰ってきて入るんですよね。入るんですよ。その人が地域に溶け込むのはやっぱり一番そういう安全団体に入って色んな活動をする中で島の人たちと知り合うことができるということで入ってもらったんですが、そしたら帰ってこられてそのご主人の方はIターンになりますんでね。

―Iターンいうたら、なんかよそから来る人ですよね。私がIターンですよね。

Iターンですね。そういう方が島に来られて実際に小さい子どももいるんですが、残念ながら去年ですね小中学校がこの島、廃校になりまして。人数が少ないのでね。で、隣の蒲刈町といっしょになりまして。なんとかね、そこにかよっておるような状況なんですが、それでも島で暮らしたい子どもを島へ通わせたい言われて、島の小学校に、隣の島の小学校に通わせている状態になっとるんですが。
その方も、ここからでしたら島外に仕事に行かれる・・・。

―橋でわたってですね。

そうですね。橋でわたってですね。

―そういう仕事のやり方も当然いくらでもありますね。

ありますね。さっきも言ったように、橋ができたからですね、いつでも帰れますので。通勤すれば近いですし、住むのには、やはり彼らが言うのには、住みやすいと。
便利は悪いんですよ、スーパーもないし娯楽施設もないんですが、まあ静かなところでのんびりとですね、暮らすにはもってこいではないかとおもうんですね。
私自身もですね、さっき言ったように若いときにはもう出たかったんですが、町の方に住みたかったんですが、年とるとですね、落ち着くんですよね。
で、今、退職します前からなんですが、健康のことを考えてですね、ウォーキングを毎日4キロから6キロ、この12月でまる6年なんですが。で島へ60前に帰ってきたもんで。帰ってきてから・・・帰ってきてじゃないですね。住んどるんですが島外の仕事からこっちへ帰ってきて、異動になってからずっともう6年間。
それから、町いうか呉の市内の方でウォーキングするとなると信号待ちとか自転車が歩道の上を走っているし、なかなか難しいんですよね。
島に帰ると車もあまり通らないですし、毎日夕日を見ながらね、季節を感じながら・・・。今だったら日が短くなってますのでもう6時だったら真っ暗なんですけどね。5時過ぎたらずっとこう夕日が沈んでいくのが見えますが・・・。夏だったら7時ごろずっと夕日が沈んでいくのを見ながら歩くんですよね。すごく気持ちがいいんですよ。

―今ちょっとお話に出ました小学校は隣の島に行くということですけど、島の施設とか、店もあまり小さい頃からなかったというお話を伺ったんですけど、まあそれでちょっと伺いたいんですけど、その小学校は隣言うても橋一本渡った所【隣の島との間に500メートルぐらいの橋がかかっている】なんですよね。そんなに遠くはないですよね。

そうですね。でも、その統合した小学校も後・・・まあそうですね、4、5年すればまた統合されることになるんですね。

―今度はどうなるんですか。

今度は本土の仁方ですね。仁方小学校中学校。今でも希望している人は仁方小学校中学校に行っている人もいるんです。親御さんの関係で、仕事が呉や広の方だったら・・・。

―そうですね。行き帰りのついでに・・・

そうです。迎えに行ったり送ったりできますので、中にはそういった方もいらっしゃいます。

―仁方というのは橋を渡って本土の・・・。

そうです、そうです。

―時間としては車だと10分15分・・・。車があれば行けるという感じですね。
あと、まあ小さい頃にはあまりものも買ってもらえなかったということですが、その頃は店はどの程度あったんでしょうか。

個人の店がですね、3軒から4軒ですね。小さい店なんですが、まあおばあさんが一人で出しているような店ですね。まあ、駄菓子屋さんが2軒、お好み屋さんが1軒ぐらいですかねえ。

―じゃあ、それはまあ今と似た感じですかね。

今は逆にそういった店は減りまして、今1軒しかないですね。駄菓子屋さんはなくなったですね。

―駄菓子屋さんは僕も見たことがないです。

もうなくなってしまいましたね。食糧品、スーパーのちいさいね、個人スーパーじゃないですが商店が、1軒。島にもありますが、各地区に一軒ぐらいあるんですかね・・・。昔はもっともっと多かったですね。

―(昔は)もっと多かったんですね。

今はもう橋ができてるもんでね、買い物をしてですね、近いですから。

―また(今は島に)大きなコメリという店が1軒ありますね。家庭用品とか。昔はそんなのはなかったんですね。ホウキとか洗剤とかいうのはそこで買うという感じですよね。

そうですね。食料品以外は大体そろうようになってますので。そこでですね。安芸灘4島の方が結構多いんですね。売上がいいらしいですが、あそこ。よそから来るので・・・。

―なるほど、よその島からも買いに来られる・・・

そうです。そうです。4島の人も使ってますよね。やっぱり農業される方が多いですよねこの4島。ですからまあ、結構ね、コメリさんは。

―土とか肥料とか農具とか・・・

私もちょっと作っとるんですが、島にいると親が作っておったもので、畑があるんですね。私も何回かしましたけどね、たくさんはしないんですが、ちょっとするんですが、そのような時コメリさんがあればですね、除草剤とか買ったりですね。農薬は農協で・・・。ちょっと、便利がいいですね。わざわざ広まで行かなくていいですからね。

―広というのは、橋を渡った町が仁方ですけど、そのもう一つ隣、そっちはすごくおおきく5万人ぐらい・・・

そうですね、4万6000ぐらいですね。

―だから何か大きいものがいるときはそこで買う。車で行くとだから20分ぐらい・・・
今のお話に出ました4島というのは、この下蒲刈の島が本土から一番手前の島で、その後3つ島があるんですね。
で、あのまあ大学で4年間外にでられたとうことで、言ってみれば島とは違う本土というか、それは都会なんですか? 大学というのは。

県外ですのでね、まあ都会ですので、そこは何でもそろってました。そこからいきなりまたここへ帰ってくると不便なんですね。コンビニもないですし。ちょうど学生の時にコンビニがどんどんできたころですけどね。

―ちなみに、コンビニは島になくって、本土の一番近くのコンビニまで車で10分ぐらいです。で、まあその大学の4年間とは言え島とは違うところで暮らされて、ある意味客観的にこの島を見られる経験もされていると思うんですけれども、まあ振り返ってこの島の良さというとどういう・・・。

まず一番には、島へ帰ってきて思ったのは、私はまあ、高校卒業するまで魚が大嫌いで、魚は全然食べなかったんです。で、食卓にはでも毎日魚があるんですよ。ですから、私は食べないから私用に別のものを、メニューでですね、親が作っておったんですね。
で、やっぱり、学生生活にはまあ定食なんか頼むと必ず魚がついてくるんですよね。時々ですね。お金払っているからもったいないからたべますよね。それが長かったんですね。で、まあ魚が食べられるようになって、こっち帰ってきたときに魚を家で食べてみようと思って食べたときにびっくりしたんですね。味が全然違うんですね。おいしいんです。全然違いますよね。それがまず一番に感じましたね。それから魚を食べるようになりまして・・・いわゆる食わず嫌いだったんですかね。

―ああなるほど。でもは子どもの舌というのはあんまり魚とか(は)べちゃべちゃしてて気持ち悪いとか・・・。

生臭いとかですね。においがしますのでね。
まずそれが一番に学生からこっちへ帰ったときに島に帰った時ですね。まあいいことはいいことなんですかね。
でまあ、あとは景色とかなんとかいうのはもう小さい頃からすみなれとったもんで、これは当たり前な風景ですね、当たり前な季節なんですよ。

―いや僕から見たらもうすごい毎日飽きなというかきれいで、言うてみれば毎日ちょっとずつ違って・・・雲も毎日し少しずつ違うし見てても飽きないですけどね。まあ、そうですね、ずっと小さい頃からだと(笑)・・・

 そうですね。実感がわかなくって・・・。
ですから、さきほど言ったIターンの方、Uターンの方とかに聞いて初めてこういうとこがいい、ああいうとこがすごいですねと感動されているんですよ、いちいちですね、その景色に・・・。

―僕もそういう経験あります。

その景色を見ながら私は当たり前な景色ですので全然感動もないんですよね。でもまあ、確かに4年間町で暮らしてみて、車がたくさん、排気ガスがある、暑い・・・、
そういったとこから比べると、夏も海がありますので気温が全然違うんですね。涼しい・・・。 冬は暖かいんですよ。 呉は広地区と、――広地区に仕事で通ってたことがあるんですが――、もう5度違いますね。朝出るときに測って、広に着くと5度違う。
そのぐらい周りが海ですので、やはり海の暖かさというんですかね。で、温度が違うんです。で、山の人に聞くとそれでもまた5度、つまりプラスマイナス10度 、呉市の山、昭和地区になるんですかね焼山地区なるんですか、10度違います。 そういうふうに呉の中でもそんなに気温が10度違うんですね。

―暖かいんですね。

ええ、暖かいところで住みやすいんですよね。 冬は暖かくて夏は涼しいんですね。風が、海の風が吹いてですね。

―じゃあまあ自然に恵まれて、体的にも住みやすい、魚がおいしい。

そうですね。まあ体がだんだん老後にむかっていくんですが(笑)。まあ、のんびりと・・・。町へ出ようと思いませんね。 コンビニはなくてもですね、やっぱりこの島はいいですね。

―わかりました。今日はありがとうございました。貴重なお話を伺いました。

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下蒲刈島 迎賓館